東洋医学➀:私的な説明

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太極図東洋医学
太極図

東洋医学➀:私的な説明

まず、
この「東洋医学➀」で
私の考える“東洋医学”について
書いてみたいと思います。
(もう少し一般的なことは
「東洋医学➁」のタイトルで
書こうと思っています。)

私の考える“東洋医学”

定義

こんな感じです。

【「からだ」で感じた
感覚を基礎に
技術や概念を
組み立てていく医学】

です。

この「からだ」は、
自分で感じる「からだ」です。
他人に説明してもらう
身体ではありません。

つまり、
自分の感じた感覚を
ちゃんと信じて
その感覚から、
今、
体に起こっていることを
説明したり、
対処したりする方法
ということです。

肝臓と“肝”の差

例えば、

緊張や恐怖など
心が大きく揺さぶられると
動悸がして脈拍が早くなったりします。
また、
手先が冷たくなったり
顔が赤くなって熱くなったりします。
あるいは、
胃がキリキリと
痛んだり
腸がゴロゴロと
鳴ったりすること
もあります。

このような反応を、
伝統的な鍼灸では、
精神的な揺さぶりが
“肝”という仕組みの
働きを阻害するからだと
考えます。

この“肝”は
肝臓ではありません。
「からだ」を
使って感じとった
体の全体に張り巡らされた
体の仕組みです。

肝臓という臓器の機能も
一部含んでいることは、
確かだと思います。

けれども、
それは
その肝臓の働きが
“肝”の仕組みの中に
入り込んでいると
「からだ」の感覚から
感じられるからです。

“肝”は、
現代の西洋医学が
説明する肝臓ではありません。
肝臓という物質の働きを
取り違えて作られた
混乱した原始的な説明などでは
ないのです。

全く違う土壌に育つ2つの医学

これらの差は、
育った土壌が全く異なる
種類の違う植物ようなものです。

例えれば、
砂漠のサボテン

温暖湿潤な地方で
育った稲ぐらい違うのです。

片方は、
「からだ」という
自ら感じる感覚という
土壌を土台に
育ちます。

もう片方は、
身体という普遍化を目指した
情報の交差点を
土台に育った概念なのです。

“東洋医学”は閉じてしまっているのではないのか?

恐らく、
ここで批判の声が上がるのが
想像されます。

「だから、東洋医学は
ダメなんではないか?」
「感覚に頼りすぎて
自分で自分を信じこんでいる
だけなのではないのか?」

という声です。

言いたいことはわかる
気がします。
私が鍼灸学校の生徒だった時、
同じような疑問や不安を
感じました。

自分の感覚や考えに
はまり込んでしまって
外からの批評や批判が
全く届かなくなって
しまっているのではないか?

もし、
感覚を信じすぎて
とんでもない間違いを
していたとしても
自分一人で
閉じこもっているだけだったら
自分一人が
落ちていくだけです。

けれども、
誰かの体を触らせてもらう
ということは
それだけでは
すまされないはずです。

ここに、
自分の「からだ」の感覚に
頼り過ぎてしまう時の
不安が沸き上がるのです。

西洋医学はどうしているのか?

西洋医学は
ここで感覚を信じないことを
選択します。

つまり、
二重盲検法という
手法です。

施術を施す医者も
それを受ける患者も
内容を知らずに
行うテストです。

医者は、
与えたのが
薬なのか
そうでないのか知りません。

患者も、
その錠剤が薬物なのか
ただの砂糖なのか
わかりません。

この互いに
何にもわからない状況の中で
他よりも抜きんでて
効果のあったものこそ
が真の薬・施術だ
―というわけなのです。

この医者の意図や
患者の期待を
超えたところで
起こる現象こそが
本当の効果だと
考えるのです。

本当に
よく考えられた方法だと
思います。

この方法自体が
自分達の思い込みや
先入観を
招き入れないぞ
―という強い態度表明に
なっています。

“東洋医学”の弱い所

ひるがえって
東洋医学は、
このような一般論を
析出するようなシステムを
持ちません。

この部分は弱いと
認めるべきだと思います。

自分が
「からだ」の感覚を
使ってつかまえてきたことが
ただの思い込みになってしまう
可能性があるというのは
本当だと思います。

単純素朴に自分の
感覚を信じているだけでは、
もっと良い方法や観方があるのに気付かず
態度を変える契機が
訪れにくいのです。

他の人から
「そこはこうの方が
良いのではないか」
と言われた時に
訂正したり
ひっこめたりする
契機を失いやすいのです。

実際に、
様々な流派や
団体が数えきれない位あるのは、
自分達のやり方を
作り出す方が多いのに、
色々な立場の違ったものを
一つの枠で
再度括りなおす力が
弱いせいなのだと
私は思います。

東洋医学の可能性

さて、
ここまで、
東洋医学のダメに流れやすい点を
書いてしまいましたが、
万事が万事がそうだと
考えているわけではありません。

“東洋医学”で閉じていってしまわない条件

「からだ」は他者

自分で自分の思い込みや感覚の中に
閉じてしまっているのではないのか?

ということに対して
こう答えたいと思います。

「からだ」は
理想を勝手に思い描く「私」
から見ると他者です。

つまり、
キチンと
「からだ」の声に
耳を傾けていけば
自ずと思い込みで
ある「感覚」への閉じこもりは
ほどけてきてしまうものだ
―ということです。

具体的に言えば、

「からだ」の感覚を
練っていくと
今まで見えてなかった
「からだ」が
化けの皮を剥ぐように
つるりと表れてきて
しまうものだ
―ということです。

「からだ」をよくよく感じる

例えば

膝が痛い=膝が悪い
と単純に考えているだけなら
ただの思い込みに
なりやすいです。

けれども、
痛みは鋭いのか?鈍い痛みなのか?
膝だけが痛いのか?
歩くと痛いのか?
横になってるだけでも痛いのか?
筋肉の張りや
腫れ、熱感は
ないのか?
…などなど

痛みを空間的にも、
時間的にも
立体的に捉えなおして
いくことを
繰り返し深めていくと
違った相が見えてきます。

つまり、
膝が痛いのは膝が悪いからだ
という思い込みが
壊れて
実は
腰が悪くて
膝の痛みは
それが氷山の一角として
現れているにすぎない
という風に
わかってきたりするのです。

「からだ」を決めつけない

思い込みが強くなりすぎたり
閉じこもったように
なってしまうのは、
「からだ」に向かって
決めつけた
視線を投げてしまっているからです。

決めつけた視線で眺めるので、
新しい感覚が開かなくなって
しまい閉じてしまっているからです。

だから、
「からだ」の感覚を
決めつけてしまわないように
丁寧に感じることを
自らに課すことが出来れば
閉じていくのを防ぐ
ことが出来るのです。

「からだ」は
他者として現れて
自己満足の世界を壊します。
私が閉じていくのを
告発するのです。

もちろん、
西洋医学のように
外の視線へ開くことが
システム化されてはいません。

けれども、
外に向かって
閉じてしまわまないという
選択をしていくだけの
材料は
一応そろってはいるのです。
(個人の力量に
頼りすぎているとはいえ…)

「からだ」の感覚が価値観をもたらす

さらに付け加えるべき点が
あると思います。

「からだ」の感覚から、
技術や概念を練り上げていく方法には、
自分の感覚を信じない方法
(=二重盲検法)
にはないメリットがあると
私は考えています。

それは、

【私達の価値観や欲望が
どのような状態にあるのか?】
ということが
とても大切であることが
前面に競り上がってくる

―ということです。

感覚の中には意図や方向性が潜む

感覚の中には、
いつも意図や方向性と
いったものが混じります。

例えば、

手首の脈を指先で
感じて「からだ」の状態を
知る脈診という方法が
あります。

この時、
ザラザラとした感触を
探そうと
意識を集めると
ザラザラを探して
指先は当て方を
微妙に変化させて
ザラザラを探してきます。

反対に、
ツルツルを探そうとすると
同じように
ツルツルを
指先は見つけてきます。

感覚は意図の指し示す方向に
従って
その見せる表情を
変えてくるのです。

偏見・バイアス・希望的観測

これが、
本人の気付かない内に
無意識に意図してしまうと、

偏見とか、
バイアスとか、
希望的観測とか
呼ばれるものに
なってしまいます。

これを
防ぐために
西洋医学では、
二重盲検法という
統計学的な方法が
採用されたのですが、

東洋医学では、
逆向きに舵を切ったと
言うのが私の考えです。

意図や方向性の後ろにあるもの

感覚の相に分け入る

つまり、
ザラザラを
見つけてしまう場所は、
一体どこなのか?

ツルツルを
見つけてしまうタイミングは
いつなのか?

感覚の相を
さらに分け入り
その感触を
見つけてしまう
瞬間を見届けようと
するのです。

すると、
それを見つけてしまう
視線やその角度と
いったものに意識が
向かわざるえなくなります。

私が見ようとしているもの

つまり、
私は何を見ようとしているのか?
ということを
絶えず意識させられることに
なります。

そして、
その背後に
自分自身の価値観や欲目が
潜んでいることに
気付かされるのです。

今ここに投げ込まれた私

これは、
いわゆる客観的な態度とは
丸っ切り正反対の態度です。

自分の「からだ」は、
目の前の人や状況に
放り込まれており
その状態のなかでこそ
判断していかなければ
ならないことに自覚的に
なるのです。

この一度しか起こらない
状況の中で
自分の価値観や欲望を
使って展望を開く
視線の投げかけを
行う必要があることに
直面してしまうのです。

客観的な所へ
逃げ込めないことに
気付いてしまう
と言い換えても
いいかもしれません。

病の価値

このことは、
病や「からだ」と
やり取りしていく上で
とても大切なことだと
思います。

病が病であるのは、
人間の価値観から
発生しています。

価値観のない
客観的な見方からは、
感染症もケガも
ただただ自然の成り行きのなかでは
当たり前の現象にしかすぎません。

これを
退けたいと思うのは
人間の価値観がそう
思わせるからです。

西洋医学的な方法を「からだ」の感覚で捉えなおす

西洋医学の方法が
どんどん精緻になり
微細な物質やエネルギーの
振る舞いとして
病気や疾病を
解明すればするほど
私達患者の不満が膨れ上がるのは
きっと理由があるのです。

仕組みを解明して
新しい技術を開発しても
病の価値を見ないからです。

漢方や鍼灸の効果が
二重盲検法でテスト
されたりする必要があるように
西洋医学の薬や手術も
「からだ」の感覚で
尋ねなおすという
東洋医学の方法で
テストされる必要が
あるのだと思います。

感覚から眺めなおす
ことによってこそ
その治療法の本当の価値が
確定されるからです。

(現在の”東洋医学”全体の力量では
この任務を果たす能力に欠けては
いるとは思いますが・・・)

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