体/身体/「からだ」の書き方を区別したい
当院のこのホームページにおいては、体、身体、「からだ」という書き方を使い分けるようにしています。
- 体……普段の生活の中で当たり前のように前提してしまっているカラダです。暗黙の約束で出来たカラダ、社会的な常識としてのカラダと言い換えることも出来ます。誰の体なのか?は必ずしも名指すことは出来ないかもしれませんが大抵役割を担う人のカラダとしてイメージされています。
- 身体…客観的な視点から万人に共通しているものとして捕らえようとした時に現れてくる抽象的普遍的なカラダ。誰にも当てはまるようでいて結局誰のカラダでもないカラダ。
- 「からだ」…自分自身の五感で直接感じているカラダ、自分自身の感覚でさぐっていくことが出来るカラダです。“私”または“あなた”という一人称二人称の視点で対面している時にしかとらえることが出来ないはずのカラダです
(※この区別はあくまで当院における区別です。 一般的な区別ではけっしてありません)
なんでそんな微妙に見える差にこだわるのか?
【「からだ」の声を聴こう!】を実践しようとした時に邪魔するモノがあります。先入観とか知識といったものです。「解剖学的には骨はこうなってる」とか、世間的には「股下60センチは短足だ」とかそういったものです。そういった枠を一旦脇においておいて、ますば虚心坦懐に目の前でゆらめいている「からだ」の感覚そのものをまずはキチンと追いかけてつかまえて欲しいのです。この「からだ」の感覚の中に「私の痛みに関係してるのはどこ?」とか、「私の場合は何?」とか、「私は結局どうしたいんだろう?」とかの答えのヒントが隠れているからです。何をするにしても、整理整頓、片付け、交通整理をしてから始めないと上手くいきにくいよねーということです。ここで上手く「からだ」感覚を捕まえ損ねると、すごく遠回りになってしまったり、沢山の努力が無駄になってしまう可能性が高くなってしまいます。
なのでまず、自分が感じている「からだ」は今どうなっているのか?を感じてとらえなおして欲しいのです。やってみるとわかりますが、私達は先入観や知識を振り回して、自分たちの「からだ」がどうなっているのか?を見ていない気付いていないことがとてもとても多いのです。
世間的な先入観の代表として“体”という表現を与え、医学的科学的な知識を代表するものに“身体”という表現を与えて、私たちが感じている「からだ」を区別して意識してもらおう!ーという意図です。
「からだ」
3. 「からだ」…自分自身の五感で直接感じているカラダ、自分自身の感覚でさぐっていくことが出来るカラダです。“私”または“あなた”という一人称または二人称の視点で対面している時にしかとらえることが出来ないはずのカラダです
https://miyazakiharikyu.com/post-262/
カッコ付きのこの「からだ」は私たちが、まさにナマナマしく感じているカラダそのものです。五感で感じられるというよりは、五感そのもので出来上がった五感のカラダです。その人が感じているそのものとして現れてくるカラダなので、原理的には他の人からは直接確認しようがないカラダです。他人にうまく説明できないので、すぐ忘れられてしまうようなカラダです。そんな、すくってもすくい切れないカラダをなんとか呼び留めておきたいという時に使うのがこのカッコ付きの「からだ」ということになります。
体
1. 体…普段の生活の中で当たり前のように前提してしまっているカラダです。暗黙の約束で出来たカラダ、社会的な常識としてのカラダと言い換えることも出来ます。誰の体なのか?は必ずしも名指すことは出来ないかもしれませんが大抵役割を担う人のカラダとしてイメージされています。
https://miyazakiharikyu.com/post-262/
このニュアンスをイメージするのはなかなか難しいのですが、まず私が具体例として考えているのは、組体操をする時に前提されてるようなカラダです。「四つん這いになって何人か並ぶとその上に平らな空間が出来るよね。そうしたら、そこにさらに人が乗ることが出来るよね…以下同…」つまり、役割を担うはずの「共有され◯◯が出来る(に使える)はず」と前提されてしまっているカラダです。そのイメージがさらに抽象度があがると社会的関係を結ぶ(約束、契約、etc,)結節点を表すカラダが浮かび上がります。この意識しないうちに前提してしまっているカラダ、暗黙の前提になってしまっているカラダを“体”という風に表現しようと思います。この“体”ニュアンスは普段何気なく当たり前のように使われています。それ故先入観として強く働いています。「◯◯出来ないのは✕✕だ」みたいな価値判断を呼び込んで私達を静かに苦しめていることが多々あります。
身体
2. 身体…客観的な視点から万人に共通しているものとして捕らえようとした時に現れてくる抽象的普遍的なカラダ。誰にも当てはまるようでいて結局誰のカラダでもないカラダ。
https://miyazakiharikyu.com/post-262/
身体ーこの二文字で書かれたカラダは、理念化され抽象化されあらゆる場面で通用するはずと思われた結果、揺らぐカラダのイメージが排除されて固定されてしまったカラダとして使用していこうと思います。特に、西洋医学的な視点から言うときに使われる身体というニュアンスに代表させて考えています。論文や研究等では言葉を正確に伝える必要があります。けれども、時代、状況、読む人が変わった時、一つの言葉でもイメージされる言葉の内実が全く異なってしまうことが多々あります。それを防ぐために定義を定めたり論理的な整合性を合わせていく必要があります。このような作業を通じて思い描かれるようになったカラダを“身体”と書き分けておきたいと思います。この身体は、普段、私達がカラダと聞いて抱いてしまうイメージとはかなり違います。実験により計測されて平均化され、専門家による討論と合議にさらされて、本質的普遍的なものとして思い画かれるカラダということです。この身体は誰にでも当てはまるようでいて、ピタッと当てはまる人のいないバーチャルなカラダです。仮想空間にデータで描かれたホログラフィーのようなカラダです。基準点としてはとても役立つのですが、自分の具体的な「からだ」からその基準が上手く参照出来ない時は全く役立たなくなってしまうことも多々あります。
体、身体、「からだ」の区別はキレイに分けきれない
私達が一つの言葉を発する時、その言葉は一つであるにもかかわらず、様々な多くのニュアンスを混ぜてゴチャマゼイメージにして一つの言葉にのせて発っしています。それが当たり前です。もし、そのゴチャマゼイメージから一つのまとまったニュアンスが取りだせれるとしたら、その単語が使われた後の反応のされ方や行動によって一つの側面が強調されるからです。
体/身体/「からだ」のニュアンスの差も全く同じです。私達が普段の生活でカラダと発音した時、3つの区別は全く意識されていないはずです。その時に何をしているのか?何をしようとしているのか?どんな反応がなされたのか?の違いによって、一つの側面が強調されて後から取り出されます。そして、その後特に困ることがなければ一瞬強調された側面はすぐ忘れられていつものゴチャマゼイメージに戻っていきます。
つまり、体/身体/「からだ」の区別はキレイに分け切るのは難しいということです。むしろ、被った状態のニュアンスを伴っている方が普通です。
直感的な図にしてしまうとこんな感じでしょうか?↓
体/身体/「からだ」のニュアンスの違いが表面化していそうな状況を考えて例をあげてみました。
・工場や配達の仕事をして借金を働いて返した(体)
・学会のガイドラインで糖尿病の基準を調べた(身体)
・二日酔いのせいなのか、今日は抜けるようにだるい(「からだ」)
どうでしょうか?
【「からだ」の声を聴こう!】が聴こうとしている声は「からだ」の声であって、身体や体の声ではない
この3つの区別を前提すると、カラダを観察するというのにもイロイロあるんだな…ということがわかると思います。
身体の声を聴こう…では、「血液検査しましょう」「レントゲンしましょう」etc. になります。
体の声を聴こう…では、「肥ったら病気なるよと言われたからダイエットしてる」みたいな例になりますね。
つまり、「からだ」の声を聴くとは自分で感じている五感のナマナマしさを直視することであって、身体検査を沢山する事や他の人の意見を鵜呑みする事とは全く違うことだと言うことです。