【「からだ」で納得】と【身体の理解】…全く違う二つの理解

新年(24年)は1/5(金曜)より
開院致します。 →お知らせ

「からだ」で納得する
―ということと、
身体という機械の仕組みを
頭で理解する
―ということは、
根本的に違う種類のことです。
「からだ」と身体の使い分け

血圧が一時的に
上がる状況を説明して

A)ストレスを脳が認識すると
 自律神経やホルモンを介して
 心臓の心拍数や拍出量をあげます
 その結果、血圧が上がるのです。

という説明と

B)予想外の出来事が起こり
 そのことに対して
 驚きや不安を感じると
 胸の辺りがドキドキしてきたり、
 顔が赤くなったりします。
 この時、血圧計で血圧を測ると
 血圧が普段より高くなっています。

この二つの記述は
一見同じような事態を
説明しているように
見えます。

けれども、
わかった気にならないで
自分自身で
よくよくイメージを
思い浮かべながら、
A)、B)それぞれを
ゆっくり丁寧に読んでみて下さい。

まず、
A)の説明のイメージには
「私」や「あなた」
つまり、私達は出てきません。

誰のものかわからない心臓が
虚空のような空間で
誰のものかわからない脳と
神経や血管という
バイプや配線で回路を形成していて
ストレスという電気パルスのような
刺激が脳に伝わると
心臓が早く大きく動くというような
イメージが出てくると思います。

対して、
B)のイメージには、
人物が必ず出てくると思います。
結構多くの場合、自分自身が
出てくるのではないかと思います。
自分が出てこなくても
身近な人や知った人のイメージに
連なる像が出てくるのではないかと
思います。

自分、もしくは、その人が
何かのハプニングやトラブルに
出くわす。
すると、肩がグッと上がって
胸を上下させて
顔が赤くなったその人の
イメージが浮かび上がります。

その人を、
血圧計の前に座らせ
マンシェットを巻いて
血圧計を動かします。
血圧計は、電動のものかもしれませんし、
昔ながらの、水銀柱と聴診器を
使った手動のものかもしれません。

マンシェットが締め付ける感触や
空気が入る音なんかも
一緒に連想されるかもしれません。

そして、
血圧計に示される
数字を、少し緊張した気分を
持って見つめるという
ような具体的なイメージが
浮かぶのではないでしょうか?

A)とB)の文章を
読んだだけでイメージされる
内実がこれだけ変わってしまうのです。

イメージの内実が違うということは、
私達の体自体が違う反応を示しているという
ことではないでしょうか?

言葉から受け取るものが
違っているということは
理解している仕方が違っている
―と考える方が素直なのではないでしょうか?

では、
何が違ってしまっているのでしょうか?

具体的⇔抽象的

という道具を使って
考えてみましょう。

確かに、
A)の説明は抽象的
B)の説明は具体的です。

西洋医学では
科学的な方法を
尊重します。

科学的な方法は、
個別的なことを
抽象化して
普遍化しようとします。

つまり、
血圧が一時上がるという場面から
「あなた」や「私」という要素を落とし
誰にでも当てはまるだろう、
心臓の働きを表す
数字・指標を得ることを
目指します。

血圧を測る際の
感触や感覚は、
そぎ落とされます。
ストレスという言葉も、
驚きや不安といった
情動の変化の内実に
タッチしない言葉です。

つまり、
B)のような事態を
B、B1、B2、B3…と
沢山集めて重ね合わせて
いくと
A)という事態が
現れてくるだろうという
ことです。

出来るだけ
抽象化されるように
努力されたものが
A)=西洋医学的な説明
ということになります。

この時、
西洋医学的な説明では
個人々の五感に根ざした感覚は
抜け落ちていきます。

B)は、
A)という説明の
一つの具体的な例を
示しているという
ことになります。

もし、
ここで、
抽象的なA)が具体的なB)を
完全に包み込んで
しまっているのなら
抽象的な説明A)だけを
握りしめていれば
どんな事態にも対応できるはずです。

これが正しいとすると、
現実に対応する分には、
A)とB)の違いは
大したことではない
ということになります。

そして、
これが、
A)とB)を
一瞬、ゴッチャに
考えてしまう
私達の考えグセの正体でもあります。

A)とB)の違いは、
確かに、抽象⇔具体の違いです。
そしてA)という事態のイメージを
つかまえていることが出来ていれば
多くの似たような事態に
対応できることになります。

けれども、
A)だけ握りしめていれば
万事うまくいくと
考えていてはいけません。

B)からA)へと
抽象化されてしまうときに
削り取られてしまうものが
あるからです。
このそぎ落とされてしまったことが
治療や健康を目指す際の
妨害因子となると
私は考えているからです。

何がそぎ落とされたと
私は考えているのか?

それは
みずから感じる「からだ」です。

みずからの感覚を
使ってつかみ取る
「からだ」です。

具体的な所から
抽象的な場所へ滑り込むときに
「私」や「あなた」といった
感覚の住む場所=「からだ」は削られ
その代わり、
抽象的な身体へと
その場所をゆずり渡すのです。

では、
「からだ」が無くなった説明は、
どうして役立ちにくく
なってしまうのでしょうか?

「からだ」は、
私達の価値観が生まれて
育つ場所だからです。

何のために、
元気である必要があるのか?
何のために、
生きていく必要があるのか?
何のために、
病や怪我から回復したいのか?

そういったものは、
「からだ」と伴にしか
存在できないからです。

抽象化された身体は、
「私」や「あなた」は消え、
その人一人ひとりの
感覚や思いは削り取られ
物質としての身体が
露呈してきます。

つまり、
身体になればなるほど、
私達の

何のために、
病や怪我から回復したいのか?」

という動機(≒価値観)から
遠く隔たった場所へと
連れていかれることになるからです。

何のために
治療しようとしてるのか?」
何のために
元気になろうとしているのか?」

それが、
わからなくなって
混乱してしまった時には、
もう一度、
「からだ」に
立ち戻って
私達の価値観を
「からだ」に
問い直していく必要があるのです。

すなわち、
それが、
「からだ」で納得するということ
なのだと思います。

そして、
これは、
身体という機械の仕組みを
理解するということとは
全く別の種類の行為なのだと
私は思っています。

鍼灸や整体といった
技術は
「からだ」の感覚なしには
成り立ちません。

養生という方法は
「からだ」の在り方
そのものに根ざしています。

「からだ」を
見失ってしまったと
感じているのなら
きっとお手伝いできる
ことがあると思います。

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