「気血」…私的な言葉として

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「気血」

私はこの言葉に

「からだ」で
 直接感じる流れの感触

という意味与えています。

例えば

右手で自分の左手首を
やさしく包むように
持ってじっと感じていると
包んだ手の中を
膨らんだり
縮んだりする感触を
感じられるはずです。
この感触の中に
いわゆる‟脈”という感触も
含まれています。
橈骨動脈と呼ばれる
動脈がある
手首の内側の親指側あたりから
特につよく感じることから
わかります。

その膨らんだり縮んだりする
感触をたどりながら、
腕の上の方へ
右手を徐々にずらしていくと
この感触が胴体の方から
伝わってきたものだと
わかります。

つまり、
これが【直接感じる流れの感触】だ
というわけです。

この流れる感触は
いわゆる
‟血液”や‟脈”と呼ばれる感触だけでは
ありません。

例えば、
階段を降りるときに
自分の「からだ」に意識の焦点を
あわせるようにして
注意していると
階段の上に
ついた足の裏から
下肢を伝って
胴体を突き抜けて
頭のてっぺんへ
抜けていくような
感触が走るのに
気付くはずです。
これも、
【直接感じる流れの感触】
です。

私達は他にも様々な
【直接感じる流れの感触】
を探すことができます。

これらを全てひっくるめて
「気血」
と私は呼びたいのです。

いわゆる客観的な観方をすれば
流れている感触は血液だったり
リンパだったり
電気信号だったりするのかもしれません。
衝撃や振動だったり
するのかもしれません。

けれども、私達は
「〇△×〇…」が流れる
としかいえないような感触を
「からだ」で感じるというふうに
言うのが一番正直な答えです。
本当にハッキリと
言い切れるのは、
こんな感触がするという所までです。

流れているものが
血液だったり
電気の流れだったり
するかもしれません。

もしかすると、
よくわからない
波動や粒子だったり
する可能性も
確かに存在します。

けれども、
それはどこまでいっても
私達の感触を
後追いしてなぞった仮説
にしかなりえないはずです。

本当に生々しい局面は
流れているいう感触そのもののはずです。

私の意見を
もっと言ってしまうと、
それ以上、さかのぼって
流れるものの正体を
特定しようとすることは、

【「からだ」という
具体的ものを知らず知らずのうちに
無視することにつながる】

のではと思っているのです。

つまり、
流れる感触をあくまでも
「からだ」という具体的な肌触りの世界に
引き付けておきたいのです。

そこで、
わざわざカッコを付けて
「気血」
呼んでおきたいのです。

ところで、
東洋医学の伝統を
もっとも正統な伝承の担い手とされている
現在の中国の伝統医学においても、

”という言葉は、
もっぱら

物質の基礎となる微細な物質
もしくは
未知のエネルギーというような
理解のされ方をしています。

この観方は、
現代の物理学や生理学に
引き付けすぎた理解の仕方です。

昔の人たちが使ってきた
‟気”という言葉を
現在、もっとも説得力のある
科学的な世界観へと
近づけたいという
無意識の現れだと私には思われます。

それでも、この解釈も
間違いではないのかもしれません。

けれども、
私は、昔の人が残した遺産を
生かすためには
科学的な説明からは
一歩しりぞいた所で
捕えなおす必要が
あるのではと思います。

つまり、
「からだ」に
たえず寄り添った思考法として
東洋医学の遺産を
読み解いていくことが
大切なのではと私は
思っているのです。

ちょっと
注意しておきたいのは、
こう書いたからと言って
科学的な思考法を否定している
わけではありません。
科学の積み上げてきた
成果を否定するつもりもありません。

科学で得られた知識は
利用されるべきです。
科学の応用で得られた成果は
健康のために使われるべきです。

ただ、「からだ」という感触から
もう一度点検しなおして
使われるべきだと言いたいのです。

実際に
私の施術には、
西洋医学的な成果や思考法の影響を
受けた方法もいくつもあります。

問題は、
科学的な方法で
探求された身体で
埋め尽くされると

感触で出来た
「からだ」は
隠されてしまうことです。

隠されてしまう「からだ」を
掘り起こすこと

そこにこそ、
東洋医学の体験の
積み重ねの蓄積が
役立つ部分なのだと思うのです。

わかりやすく
血液やリンパと
すぱっと言い切って
単純にしたい誘惑に
あらがって

流れる感触を「気血」と
私が呼ぶのはこんなわけなのです。

現代の中国の伝統医学の中に
あっさり位置付けを求めて
‟気”や
‟血”、‟津”として
安心したいのを
グッとこらえて

流れる感触を「気血」
私が呼ぶのはこんなわけなのです。

「気血」は
‟気”とか‟氣”とか
呼ばれる抽象化が進んだ
なんでも入る大きな袋では
ありません。

「気血」は
‟血”や‟津”といった
物質に引き寄せられた
概念から
距離を取りたいのです。

つまり、
抽象化する前の‟気”の感触
物質のようになってしまう前の‟血”の感触を
未分化な具体的な
なまなましい感触のまま
「気血」と呼んで
取り出したいのです。