情報@「からだ」感覚…「からだ」からの視点で“情報”という体験の定義を試みてみた

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文字から読み取るもの「からだ」と身体

“情報”という言葉の定義をめぐって・・・

‟情報”って言葉は一般的にはどんな風に定義されている?

情報”という言葉は難しい言葉だ。
少し調べるだけで様々な定義や呼び留めが沢山見つかる。

調べてみると使っているジャンルや状況によって
意味が大きくまたは小さく変わってくるのがよくわかる。
また方向性が同じであっても、
状況によっては指し示している範囲が
大きくなったり小さくなったりしていることも多いのではないだろうか。

“情報”という体験を「からだ」感覚へ引き寄せたい

ただこういった定義等を見渡しても、
情報を感じる「からだ」という感覚の方向から
呼び留めようとしたものはほとんどないように思える。

私は、自ら感じる「からだ」という視点から
鍼灸や整体、養生というものを扱おう!
―と常日頃から考えています。

そして巷では、健康や医療の情報が
ネットや書籍とsて大量に出回っている。
鍼灸や整体といった民間系のものだって例外ではない。

この状況は私達をとても混乱させているのではないだろうか?
一般的な意味あいと「からだ」感覚的なそれとが区別されずに
混然となって使われていると、
伝えたい内容が表面的に伝わるだけで終わってしまったり
言いたい内容と大きく食い違う形で伝わってしまうことが
多くなるではないだろうか?ーそういう風に私には見えていまいます。

そこで、
“情報”が「からだ」でどんな風に現れているのかを考えて、
「からだ」感覚にとっての“情報”を
“私的言葉づかい”として定義しておこうと思う。

今後は、
「からだ」側から捉えた場合を
“情報@「からだ」感覚”
と表記して、
普通の意味で使われる“情報”と区別したいと思います。

‟情報@「からだ」感覚”の私的定義

情報@「からだ」感覚
向こう側からやってくる緒感覚のうちで、
“見えない現実”を知らせてくれるという期待を惹起する「からだ」感覚

と定義しておきたいと思います。

‟情報@「からだ」感覚” を可能にするもの

“情報@「からだ」感覚” を展開してみせる能力

ただし、
“見えない現実”はまさに目の前から覆い隠されている。
なので、直接「からだ」感覚としては開かれてこない。
従って、
この“情報@「からだ」感覚”を使うには
以下のような一連の手続きが必要なはずだ。

目で見た視覚刺激や手から受ける触覚etc.から
必要とされる部分を切り出す
       ↓
それを文字や暗号、状況の痕跡とみなす
      ↓
そこからもう一度「からだ」感覚の方へイメージや感覚の呼び起こし
“準現実”とでも呼ぶべき感覚のまとまりを「からだ」の中に展開してみせる

―といった一連の過程だ。

つまり、
“情報@「からだ」感覚”を利用するためには
「からだ」の方にそれを展開してみせる能力が
必要とされるということだ。

“情報”を「からだ」感覚に展開した際に伴う諸々のこと

“解凍@「からだ」” と “解読@「からだ」”

この能力を“解凍”と呼んでおきたいと思います。
(まぎらわしき時は“解凍@「からだ」”と書きます。)

また、“解凍”の中でも、
文字や暗号といった文化的な訓練によって可能になる場合は
解読”と呼んで区別しておきたいと思います。
(同様に、まぎらわしき時は“解読@「からだ」”と書きます。)

“解凍” や“解読” が出来るから期待してしまう

この“解凍”やら“解読”という能力を
「からだ」があらかじめ持っていることを確認すると、
定義の中で「期待を惹起してしまう」としたのは、
この能力を暗に前提していたことがわかります。

なぜなら、
この能力がなければ文字や文章はただの模様になってしまうし、
空模様や風の感覚はただの色覚刺激や肌への刺激となって
周りの景色の中へ埋もれてしまうだけになってしまうからです。

“解凍”や“解読”する能力を持つが故に、
“情報”として切り出してきて、
そこから“見えない現実”を知り得るに違いないと
期待してしまうことになるのです。

“解凍” や “解読”の成果はいつも同じではない

さらに付け加えると、

“解凍”や“解読”を「からだ」の働きや機能としなかったのは、
誰でもいつでも完遂出来る当たり前の力というわけではないからです。

最後までたどりつくことが出来るのは、
個人的な資質やその時の状況といった周りの環境と一体になった
「からだ」の状態に依存しています。

ある人にとって“情報@「からだ」感覚”に見えるものが
他の人にとっては“情報”に見えないといったことが起こりえます。
また、“情報”として切り出してくる所まで出来ても、
その後の「からだ」感覚として展開するのが出来ないことも多々ありえます。

この場合は期待ばっかり刺激されて
「からだ」感覚が満たされずに
過剰な想念や妄想が湧き上がってきて
埋めてしまうことが多いでしょう。
(この反応自体はとても興味深い部分ですね。
 今後さらに考えていく個人的な宿題にしたいです…)

“解凍” や “解読” のもたらす濃淡

さらに言えば、
「からだ」感覚の展開にも
「どの程度まで展開できたのか?」
という深度とでも呼ぶべき濃淡があります。

淡い「からだ」感覚では
たいていの場合“見えない現実”を 役立つようにするのが難しくなるでしょう。

反対に濃いからといって
正確に“見えない現実”をしっかり立ち上げれたのか?
というと必ずしもそうではないでしょう。

ハッキリとしてイメージや想起であればあるほど
気付かない内に「からだ」側の期待を滑り込ませてしまう
可能性は高くなってしまうでしょう。

“解凍” と “解読” から得た「からだ」感覚は現実より貧弱な体験である

それから最後に、
重要なのに忘れがちなことを指摘して
この文書を閉じたいと思います。

どんなに精密に“解凍”を行って
「からだ」感覚を細やかに展開してみせたとして
“見えない現実”を完全に再現することは出来ない

―ということです。

日本にいながらアマゾンの熱帯雨林の研究成果を読んだり、
写真やビデオを眺めてイメージを組み上げて
どんどん精緻な感覚を再現出来るようになったとします。
それでも、
地球の裏側のアマゾンへ向かいその大地に立つことに比べると、
それは貧弱な体験でしかないことはすぐにわかるはずです。

当たり前すぎるくらい当たり前ですけど・・・

それを“準現実”と書いたのもそのためです。

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