【「からだ」の声を聴こう!】ってどうするの?

新年(24年)は1/5(金曜)より
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「からだ」と身体

【「からだ」の声を聴こう!】って必要?

【「からだ」の声を聴こう!】って何?

それ必要なこと?

知らなくても楽しく暮らせてるよ!

【「からだ」の声を聴こう!】みたいなキャッチコピーって必要なんでしょうか?患者さんを増やすための耳触りの良い言葉で飾ってるだけなんでじゃないのか?・・・そう思われてる方も多いと思います。それに対しては、私なりの答えをまず述べておこうと思います。

【「からだ」の声を聴こう!】の実践は役立つ

「【「からだ」の声を聴こう!】の実践は、沢山の人に役立つはずだ」と私は考えています。けれども「掛け声だけならいらないよね」とも考えています。

つまり、美辞麗句としてのキャッチコピーならいらないけど、実践行動にチャンと移せられればキチンと役立つはずだ―と考えているということです。では、どんな風に役立つのか?

一人ひとりが自分にとってのさじ加減がわかる

仕事をしたり健康に気を使ったりする際に「これ位でちょうどいいんじゃないかな」という自分自信にとってのさじ加減感じられるようになるということです。

現在、世の中には沢山の情報があふれています。健康や病気についての情報もWeb上で沢山見つけることが出来ます。科学的に集めたデータに基づくEBM的なバックボーンを持つ一般論としての情報から、試してみました的な個人による特殊例の報告情報まで、様々なバリエーションのものを沢山見つけることが出来ます。これらの情報を整合性だけで読み解くのは至難の業です。まず前提となる沢山の知識を先に知っている必要があります。そして整合性を検討するための多くの手間や時間が必要になります。それが出来るならそれに越したことはないのですが、恐らく大多数の人にとってはとてもハードルの高いことだろうと思います。この状況の中で大抵の人は≪信じる/信じない≫の二者択一の問題として医療情報に接しているのではないでしょうか?

この白か黒かしかない状況から抜け出すための方法が【「からだ」の声を聴こう!】になると私は考えています。自分の「からだ」の感じを参考にすることによって、「このケースではそれはあり得ることかもな・・・」「全員にこれを当てはめるのは無理よな・・」みたいな灰色の濃淡が感じられるようになってきます。この感覚を道標にして、その情報を掘っていけば自分にとって必要な情報へのアクセスが容易になります。自分自身の「からだ」感覚を使って不要な情報を切り離して、自分にとって適切な実践へとつなげていくこと出来るようになる。そう私は考えています。

自分はどうしたいのか?…自分の価値観に気付く

そして、もっと重要だと思えるのは【「からだ」の声を聴こう!】の実践が「他でもないこの私がどうしたいのか?」という一人ひとりの価値観の側面を鮮明にすることだと思います。客観的なデータを積み上げるだけでは「私がどうしたいのか?」「どうなりたいのか?」というその人個人にとって価値観は決して明らかにはなりません。体の深い所で眠る価値観を頭で考えるだけでは取り出すのは難しいことだと思います。日々の生活の中で「からだ」の反応として価値観があらわになり、それに納得をのせる形で価値観が育まれていくわけですから・・・ 

【「からだ」の声を聴こう!】の実践だけがそこにたどり着く方法と思えるのです。ここから想像を膨らませると、【「からだ」の声を聴こう!】みたいなキャッチコピーなしで楽しく暮らせてる人は【「からだ」の声を聴こう!】の実践をある程度既に行っている可能性が高いのではないでしょうか?

【「からだ」の声を聴こう!】ってどうすること?

【「からだ」の声を聴こう!】って具体的にどうすることなんだ?

似たようなキャッチコピーが過去にも沢山使われてきました。私が読んだだけでも5つ6つくらいはあったはずです。もう細かいことは覚えていませんが、その場面場面によってみんなそれぞれ思いを込めて使ってきたはずです。なので、【「からだ」の声を聴こう!】に類するコピーに正確な意味での一般論は無いと言うのが正解でしょう。

あえて束ねるような言い方をすれば「一般論/世間的な価値や基準にとらわれないで自分の感じていることに忠実になって動こうよ」ーという感じですかね。

このザクッとした捉え方でもまあ良いような気もするんですが、私が伝えたい内容からズレた所へたどり着く脇道が幾つかあるように思えます。なので、当院のイメージしてる【「からだ」の声を聴こう!】を掘り下げておきたいと思います。

※あくまでも当院におけるそれであって他所は違うはずです。他所には他所なりの正解があるはずです。

当院の【「からだ」の声を聴こう!】実践イメージ

  1. 「からだ」を同居してる他人として扱う
  2. 自分で感じていることを信じる
  3. 絶対的な正解を求めない
  4. 「からだ」は絶えず揺れ動いていることを感じる
  5. 気付かないうちに持ってしまう目的や価値観に気付いていく
  6. 目的や価値観が揺れ動く様を受け入れていく

順に説明していきます。

1.「からだ」を同居してる他人として扱う

自分の「からだ」を一緒に暮らしてる家族やルームシェアしてる友人のように扱って欲しいと考えています。また、そういうイメージを持って「からだ」という綴りを読んでほしいのです。

私達はたいてい「からだ」に向かって沢山の決め付けを既にしています。またその決め付けの上に胡坐をかいて雑にも扱ってもいます。なので、「お腹減った」と思って食べてたけど、実は「胃が苦しかった」だけなんだみたいな事態がまま起こるのです。こういう決めつけは実に沢山あると思います。

例 トマトが嫌いだと思ってたけど食べたら美味しくて好きになった

私達は「からだ」を常に感じているのだから「からだ」のことは既によく知ってるはずだ。だから、今、感じているままに判断したり行動すれば、すぐに「からだ」の声を聴いたことになるはずだーこれは基本的に思い込みだと私は考えています。

この態度をとり続けた先は、「からだ」を車や家電のような自分の所有物と見なす態度に行き着いてしまうように私には思えます。

「お父さんは、私やお母さんの感じてることなんかこれっぽっちも想像してくれない」…ドラマや映画の中でよく出会うセリフですよね。これが私達と「からだ」にも沢山起こっているのです。

家族や友人が独立した存在であるように「からだ」を独立した存在と捉えて気づかって欲しいのです。

2. 自分で感じていることを信じる

私が伝えたい「からだ」は自分で感じてる感覚そのものです。外から待ってきた厳格な基準で測る身体ではありません。他の人の評価によって醸成された体でもありません。これを逆から言い切ってしまえば、他の人には自分の「からだ」は最終的にはわかりっこないのです。つまり、ある種の開き直りが必要なのです。

3. 「からだ」自分自身の五感で直接感じているカラダ、自分自身の感覚でさぐっていくことが出来るカラダです。“私”または“あなた”という一人称または二人称の視点で対面している時にしかとらえることが出来ないはずのカラダです

https://miyazakiharikyu.com/post-262/

けれども、外の基準に目を向けっぱなしになり、自分で感じてることは無いことにしてしまっている人達が一部おられるように私には思えます。そうなってしまった人が、自分の「からだ」を取り戻すためにまず必要になるのが

【自分で感じていることを信じる】

ということになります。

ここで私が言ってる“自分”は、他人でない“自分”くらいの軽い“自分”です。「私はこういう経験や職歴を積んできた人だ」とか「私は〇〇な性格で×××がとても好きです」とか、そういった濃密な前提を取り払った後に残るような自分です。こういった重たい自分は大抵よそから借りてきた基準で測った自分であることがとても多いと私は感じます。なので、感じる前に決めつけをしてしまうこの重たい自分には一旦お休みをしてもらって軽い”自分”に席を譲って欲しいのです。

その上でもっと大切になるのが、”感じていることを信じる”の方になります。”自分”の方が軽くなると、今、目の前で”感じていること”の方に重みが移ります。そこでやっと、目の前で起っていることが見えてきます。ここから、”信じる”という方へ賭け金を積むことが出来るようになって、やっと”開き直り”が起るのです。隠れていた「からだ」が姿を現すのです。加えて言えば、そういう態度が出来るようになることによって、初めて”同居してる他人”としての「からだ」が顔を見せてくれるようになるのです。

3. 絶対的な正解を求めない

  1. 自分で感じていることを信じる

の説明を読んでもらった方には言わずもがなだと思います。“他の人には自分の「からだ」は最終的にはわかりっこないのです”・・・“つまり、ある種の開き直りが必要なのです。”・・・だから、他の人と比べたり基準に照らすことが出来ません。答え合わせをするような正解は最初からないのです。

ただ、この考え方を推し進めると「そこはもうちょっと右手を後ろに引いた方がいいんじゃない」とか、「頭をもう少し上げた方がいいでしょうか?」みたいなアドバイスや質問は全く無意味ということになってしまいそうです。

けれども、それは極論です。具体的な場面場面へと降りていけば違う視点が見えてきます。

本や紙、ネット上で書かれた言葉は、基本的に一般的なことを表現していると理解されます。それを基準にして様々なことの正誤が測られています。けれども、私達が日常生活で言葉を使う時は、いつもある限定された状況の中で言葉を発っせられています。その具体的な制限によって、「特殊な状況下での限定された文脈内においてのこの表現なのだよな」ということを暗黙のうちに理解しているのです。つまり、「からだ」と「からだ」が交流している具体的な場面においては一般論としての身体は背景に退き、感じる「からだ」が前面に出てきて表現がなされていることになります。この前面に出てきている「からだ」をキチンと描写できれば、感じる「からだ」についてアドバイスや質問が出来ていることになるのではないでしょうか?大切なのは基準を語りつつも「絶対的正解はない〜この基準は一時的なもんだ」という意識から離れないようにしておくということです。

4.「からだ」は絶えず揺れ動いていることを感じる

  1. 絶対的な正解を求めない

からわかるとおり、一つの方法で体調がどんどん改善したとしても、状況、目的、タイミング次第の一時的なものでしかありません。何かが起って状況が変化したり、場所が変わったり、目的がずれてきてきてしまうと、良い方法も悪い方法となるーという変化が常におこります。

「そんなの当たり前やん」

日常生活においても状況が変わると解決方法が変わってしまうというのは当たり前に遭遇することです。なので、こんなこと「言われなくてもわかってるよ」という方も沢山おられると思います。けれども、自分のカラダのことになるとそうではなくなるということが多々起こります。

その理由の一つは、【「からだ」が”当たり前“を作り出す】―からだと私は思います。「からだ」は珍しい体験に最初に触れた時、ビックリしたり怖がったりします。けれども、その体験を繰り返すうちに慣れてきます。珍しい体験が”当たり前”になったのです。この「からだ」の”当たり前”を作り出す力によって、私達はむやみやたらと不安におびえたり恐怖を感じることなくリラックスして暮らしていけるのです。(・・・もちろん、時にはこの仕組みが上手く行かなくなったりすることがあります。それが鬱や不安障害(@身体)ということになるのでしょう・・・)

この”当たり前”を作り出す不思議な私の「からだ」は「”当たり前”であって当然だ」という風に私達は思いたいのだと思います。”当たり前”の土台が揺れてしまえば不安がもたげてくるという風に私達はいつもどこかで感じているのだと思います。この不安から目を逸らすために、気付いていても「からだ」の変化は見なかったことにする、判らなかったことにする・・・ということを私達は四六時中繰り返してしまっているのではないでしょうか?・・・なので、「このサプリ飲んどけば安心だ」みたいな絶対的な正解みたいなものを探してきて、すがってしまうという事態が沢山起っているのだと思います。

この思い込みの連鎖反応は【「私の「からだ」が”当たり前”であって当然だ」⇒「からだ」の変化を見なかったことにする⇒「私の「からだ」が”当たり前”であって当然だ」⇒・・・】という悪循環を引き起こします。【「からだ」の声を聴こう!】を実践するためには、この悪循環をひっくり返していく必要があります。

【「からだ」は絶えず揺れ動いていることを感じる】

この揺らぎを常に感じる感性を”当たり前”化することによってこの悪循環をひっくり返すことが出来るのです。

5. 気付かないうちに持ってしまう目的意識や価値観に気付いていく

6. 目的意識や価値観が揺れ動く様を受け入れていく

私達は日常生活を過ごすうちに、知らず知らずにある種の目的意識や価値観を抱いてしまいます。この目的意識や価値観が私達の生活を邪魔しない間は良いのですが、その目的意識や価値観からずれてしまうような生活をおくらざるえなくなってしまった時、それは私達を苦しめます。

その苦しさから逃れるためにはその価値観から抜け出てくる必要があります。けれども、気付かないうちに身に着けた目的や価値観なのでなかなか意識されずに抜け出るのが難しかったりすることが多々あります。

このことに気付きを得るキッカケになるのが【「からだ」は絶えず揺れ動いていることを感じる】だと思います。苦しいと感じる場面に出くわした時、私達の「からだ」はどうなっていただろう?どんなタイミングで苦しかったのだろう?その時は周りはどんな状態だったろう?息は上がっていただろうか?視線は何を求めて彷徨っただろうか?・・・そういった状況と「からだ」の齟齬の中から目的や価値観のズレに気付いて行くことが出来るようになるのです。

また、そのズレを受け入れて新しい目的や価値観の中で寛いでいけるようになるにも同様の【「からだ」は絶えず揺れ動いていることを感じる】必要があります。

価値観や目的意識というものは、他の人に言われて手に入るようなものではありません。自分の意志の力で無理やり製造するものでもありません。私達と「からだ」との日常生活の中でのやりとりの中で徐々に育まれてくるものです。この徐々に変化していく様に気付き続けていくことが生活のコツなのだとしたら、【「からだ」の声を聴こう!】という姿勢はイキイキと楽しく暮らしていくためにこそ使わなければならないという風に私は考えています。

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