魅入られてしまう顔の不思議 ・・・美容や健康の向こう側へ

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「からだ」と身体

知らず知らずのうちに顔探してしまう私達

車窓から流れていく風景を眺めていると、不意に現れた人の顔を目で追いかけてしまうーといった体験は誰でもあるのではないでしょうか?田舎の路線で無人駅をゆっくりと通過する時なんかです。「誰もいないはず」とボーっとしてたはずなのに、人影を見たとたんに、視線が顔を追いかけてしまうみたいなことです。

こういった体験が教えてくれるのは、私達は顔を特別なものだと知らず知らずのうちに認識していて、絶えず顔を探してしまうということでしょう。

そう考えると、熱を出して朦朧としながら寝てる時に見える天井の木目に顔を見つけてしまうとか、人の顔をチラッとも見ないでこちらを歩いてくる人に不穏な空気を感じてしまうといった現象はとても納得がいくものと感じられます。

ただ、これを【顔を探しだして認識しまう】という単純な反射の問題と片付けてしまうのは充分な理解ではありません。普段の生活を振りかえればわかると思います。思い出してください。あなたは目の前の人の顔から何を見つけていますか?たぶん、毎回違うのではないですか?同じ人の顔の中に美しさを見つけたと思ったら、翌日には寂しさを見つけていたりするのではないでしょうか?

そうです。私達は、顔からその都度ごとに、意味や価値を違えて受け取っているのです。(顔は幾重にも重なったレイヤーとして差し出されているのです。そして、私達はそのレイヤーの一部を見つけて、その都度、反応を変えているのです。)この知らず知らずに行っている複雑さを考慮せずに「ただの反射だ」と単純化してしまえば、私達の生活にとって大切な部分を大きく取り逃がしてしまうでしょう。では、顔の森の中にに分け入ってみましょう。

ただのモノから理想化していってしまう顔

モノとしての顔

普段、私達は鏡に映る自分の顔をそのまま「自分の顔」と受け止めています。と同時に、その自分の顔を他の人の顔と同じ顔だーともとらえています。どの顔も同じで何なら取り換えることも出来るのでは…と考えてしまうような顔です(整形手術したり入れ換えたりといったコメディやドラマでよくありますね)。これは、コップがある…みたいに世界中にある他のモノと同じように顔を物質として捉えていることを示しています。

美しいモノとしての顔

顔がコップのようなモノだとすると、美しいコップとそうではないコップがあるように、モノとしての顔にも美しい顔とそうではない顔があることになります。私達は美しいコップに惹かれるように、美しい顔に引き付けられてしまう傾向が当然あります。

儀礼としての顔

顔がモノだとすると、美しいコップを作ろうとするように、モノである美しい顔を作ろうという発想が自然にわいてきます。ここに身だしなみや化粧という技術が入り込んできます。モノとして顔は言ってみれば一番表面に浮かぶ入り口です。なので、入りやすいように玄関をキレイにしておこう!という訳です。

私達、人類は共同して仕事をすることによって生き残ってきた種族です。一人で孤立して生きられないのが人類の運命だと言うべきでしょう。そのためには、他の人に顔を見つけてもらう必要があります。もっといえは惹き付ける必要だってあったはずです。だとすれば、身だしなみや化粧というのは、古から続くとても重要な営みなのだということになります。

理想化された顔

また美しいモノとしての顔は、どうしても理想化されていってしまうという運命にあります。これは少し想像してもらえるとわかると思います。元々、美しい顔は社会を営む生物としての生存に繋がっていたはずです。そして社会が複雑化して繋がる人数が増えれば増えるほど、より多くの人が美しいと考える顔がより求められていったはずです。美しい顔はますます求められ、儀礼としての顔を越えて、何か特別なモノを暗示するようにになったはずです。結果的に、単に美しい顔は単に美しいということを越えて理想化された顔の具現化という幻想を体現する顔になったでしょう。

テレビや舞台で見かける見映えのする人たちは、よく似ていて見分けがつきにくいようなと感じることがあると思います。理想化が働きすぎて一つの方向へ収斂されすぎてしまった結果だと仮定すると、とても納得できるのではないでしょうか。

社会の中で生きるための顔

社会が強いる顔

モノとしての顔→美しい顔→儀礼としての顔→理想化された顔という一連の顔たちは、外から内から私達を一つの方向へ強制していくような単純化していく力として感じられるような顔だと思います。この力を逆手にとって自己実現を目指す人もいると思います。また、これに逆らって自分にとっての意味を探す人もいるでしょう。どちらにしてもこの顔は避けられないものとして私達は生きていかざるをえません。社会が強いる顔と呼んで良いかもしれません。

アイデンティティーとしての顔

上記のような社会が強いる顔とは、正反対の側面を顔は同時に持っています。他の人と私を区別する顔です。この「私」を代表するのが顔です。手や足ではなく顔こそがその役割を引き受けます。言葉を交わす前から否応なく、顔はあなたと同一視されます。履歴書の写真からSNSのアイコンまで、常にこの顔が「私」の代理人を務めるのです。顔パスという表現があるように私が私であることを証明する苦労を省いてくれてます。このことはアイデンティティーの安定にどれだけ寄与してくれているのか想像も出来ません。

引き裂かれる顔

アイデンティティーとしての顔は、他の人との違いが強調される顔です。個性が求められているのです。これは、上記の【モノとしての顔→美しい顔→儀礼としての顔→理想としての顔】という方向と逆向きのベクトルを持っています。

個性と世間的な理想を同時に満たすことは不可能なので、私達はこの間で引き裂かれているのです。私は私として生きたいという個人的な思いと、より社会的に満たされた状態で生きたいーという狭間で右往左往するのです。

仮面としての顔

引き裂かれる顔をなんとかしようとして、私達は時と場所によって、顔を使い分けます。ある時、個性ある主体としての顔を表現してみせ、ある時は、世間や社会に求められる顔をなぞってみせます。これは、いわゆるタテマエとホンネということに対応しているのですが、単純に、世間=タテマエ=仮面の顔で、個性ある主体=ホンネ=本当の私の顔みたいな固定したものではありません。もっと流動的なモノです。場合によっては、個性ある主体がタテマエとして仮面の顔として働く場合だってあります。仮面というのは付け替え可能な顔を言うので、ホンネだって、個性ある主体だって、上から被せるように使えば、仮面になるのです。仮面の下には本当の顔があるのではないのです。ただ単に隠された顔があるのみです。そして、隠された顔が付け替え可能な顔として使われる時、それは仮面としての顔となるのです。

表現された顔

そして、ときに私達は仮面としての顔を積極的に生きはじめます。顔に様々な装いを施します。化粧をしたり、ファッションを選んだりすることで、主体的な個性の表現を試みたりします。わざと無精髭をはやして儀礼としての顔を無視するワイルドな自分を表現してみぬたりするのです。なんて複雑な営みを私達は行っているのでしょう?鏡に映る顔は、素の自分であると同時に、私たちが意図的に作り上げたもう一つの顔でもあります。

未知がのぞく顔

不意に訪れる顔

モノとしての顔、美しい顔、儀礼の顔、理想化された顔、社会が強いる顔、アイデンティティーとしての顔、引き裂かれ顔、仮面としての顔、表現された顔…私達はさっと思いつく限りでも様々な顔をしていることがわかってきたと思います。けれども、こういった記憶から手繰り寄せられる顔がある一方で、私達はそのような顔が「自分の顔」のごく一部にすぎないことに薄々気付いています。町を歩いていて不意にガラスに映った自分の顔にギョッとした…という経験は誰しもあると思います。不意に覗き込んでしまった自分の顔に思ってもいなかった自分を見つけて動揺します。けれども、動揺しつつもそれが自分の顔であることはすぐに認めるでしょう。どこかで自分は自分の知らない顔をしてしまっていることを既に知っているのです。

体調を教えてくれる顔

そんな不意に訪れる“未知”の中に、体調があります。自分ではしんどいとかだるいとか感じていない時に、周りの人から「今日はしんどそうだね」と言われて、「そうかな?元気だよ」とか答えていたら、午後からダウンしちゃったみたいな経験はよくあると思います。「からだ」のコンディションが顔へと知らず知らずの内に滲み出てしまっているのです。

内面がのぞく窓としての顔

この「からだ」のコンディションが反映された顔の中に、心の反映としての顔があります。好奇心でキラキラと輝く目は、未知のものに反応する健康的な「からだ」が控えています。漏れだしてしまう笑顔は「からだ」の中の躍動感が滲み出てきてしまったものと言えるでしょう。喜びや悲しみといった内なる感情だって心臓や肺といった内臓の反映と言えるでしょう。目尻の皺や口角の動きといった目に見える形となって現れるのは、心の内側で起こっていることが、まるで窓のように外の世界に漏れ出すかのようです。私達が顔をさらす時、知らず知らずの内に自分の知らない内面を晒してしまっているのです。

惹きつけられてしまう顔

不意に訪れる顔→体調を教えてくれる顔→内面がのぞく窓としての顔…この未知を知らせてくる顔たちに出会った時に、私達はその人の存在全体をやっと見つけた気持ちになります。

さっきまで朗らかな明るい顔を見せて楽しくしゃべっていた友人… 話が途切れて、何気なく窓の外を眺めているその横顔に虚無を見つめるような陰鬱な顔を見つけてしまう… みたいなことです。きっとそんなシーンを皆さんも沢山思いだせるでしょう。

顔は不意に未知を突きつけてきますが、その未知は、既知が背中で張り合わさった不思議なモノとして現れてきます。この二面性は単なる親しみ以上であるその人そのものの存在を突きつけてきます。

理想とアイデンティティーの間を揺れ動く引き裂かれた顔が仮面をかぶり自己を表現をしていく様は物語を読むような親しみを感じさせます。

対して、不意に突きつけてくる未知の顔は不安を燻らせます。この不安は未来の不可知を暗示しているかのようです。

この不可知と物語の親しみが混ざり合った所に未来へ立ち向かうその人そのものが現れるのを私達は感じるのです。

そして、それが私達を強く惹き付けるのです。

顔はただのモノではありません。ただ単に理想を体現する美しい顔でもありません。その人の社会的アイデンティティーを記す証明書でもありません。その時その時を生き延びるためにかぶる仮面であると同時に生きた肉付きの仮面でもあります。そういった様々な顔たちがあわさった全体こそが顔なのです。そして、不意に訪れる未知の顔の中にその全体が輝きだすのです。私達が見たいのはそんな顔なのです。

顔の向こう側へ

顔が「からだ」のさまざまな価値や側面を提示してくれていることは伝わったのではないでしょうか?では、このことを知って私達の生活は何か変わるでしょうか?たとえ、「面白いな」と感じてもらえたとしても、その時だけ顔の見方が変わるだけで直ぐに忘れていったしまうでしょう。おそらく多くの場合、影響は限定的にならざるえないでしょう。

けれども、このことを深く「からだ」に沈めて日々をおくることができたら私達の価値観は大きく変わっていくでしょう。モノとしての美しい顔や理想としての顔にやたらめったら振り回されずにほど良い距離感でそれを眺めることが出来たりするのではないでしょうか?また、引き裂かれた顔や表現する顔への理解が深まれば、人と人の関係に少し余裕をもって当たれるのではないでしょうか?何よりも、未知がのぞく顔にぶつかった時、それをキャッチできる可能性がグンと高まるでしょう。それらは日々の生きる価値を高めてくれるに違いありません。

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