腰痛①:様々な重荷を支えられなくなった「からだ」

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「からだ」と身体

はじめに

”という漢字は「月(にくづき)」に「要(かなめ)」と書きます。
調べてみると最初は「」だけで腰という意味だったそうです。
それに“要(かなめ)の意味”が後から加わりややこしくなったので、「月(にくづき)」を加えた「腰」を体の一部である“腰”の意味でに後から使うようになったそうです。これは昔の人が腰を「からだ」にとって重要な部分だと感じていたからではないでしょうか?この感覚には現代の私達との間に大きな溝が横たわっている感じがします。恐らく、私達は身体の要(中心)は脳だと考えたり感じたりしているのが普通なのではないでしょうか?

この差はどこから来るのでしょうか?恐らく、知識として解釈された身体と自分で感じた「からだ」の差だと思われます。(→【「からだ」で納得】と【身体の理解】…全く違う二つの理解)
恐らく、昔の人が日々の生活の中で「からだ」を動かし感じた結果が【腰は要】という感覚なのです。

現在の私達の習慣に頼った考え方だと、頭の方から下半身を見ている感じになります。自分の頭で考えて決断したり生活を調整したり工夫したりして体を操っていると私達は信じています。つまり、頭が主で足や腰はコントロールされるべき従と考えているのです。
けれども、腰の感覚から意識を見上げると腰がどっしりと座ってくれているから、意識はその上で自由に振る舞っていられるのだと感じられるのです。いいかえると腰を中心とする下半身が用意した土台の上でだけ意識は自由でいられるという感覚です。
これは単に腰が上半身の体重を支えているということの比喩的な表現ではありません。実際に腰が人の思考や生活を限界づけているのだと言えるのだと思います。

そういう意味で
腰に痛みを感じるということは、日々の生活の重み(疲れ)を要である腰が段々と支えられなくなってきているということです。

そういう視点から見ると
自分の腰痛を気遣うということは「からだ」全体を気遣うというとにつながり、それはさらに自分の生活全体を気遣うということにつながるはずなのです。

【腰は要】においての腰の範囲

西洋医学の“腰部”は腰椎1番~5番までの間の背中側間の胴体部分です。「えっ、そんなに狭いの?」と感じる方も多いと思います。日常感覚の“腰”ではもっと上の方から下の方まで含んでイメージしている方が多いと思います。肩甲骨の下あたりからお尻の割れ目の上あたりまで位まででしょうか?
対して昔の人が感じたであろう【腰は要】の感覚の“腰”は、さらに範囲が広いのでと私は思っています。まず平面的でなくで腰骨から腹の方へと感覚が立体的に広がっていると思います。場合によっては前の腹まで全てを包みこんで“腰”と感じていたと思います。そして、その立体感のまま、お尻~股関節あたりまで下がってきていると思います。さらに場合によっては足を含む下半身全体が“腰”になっていたのでは思います。つまり、上記の解剖学的物質的な“腰部”から「からだ」を支える感覚が上下、前後へと延び広がった感覚なのだと思います。これは重たい物を持つ時に
「しっかり腰を入れて!!」と言われる時の感覚を思い出していただければわかるのではないかと思います。
もう少し想像を逞しくすると恐らく“腰”の感覚は絶えず延び縮みしています。その時々の場面や体調によって小さくなったり大きくなったりしているような感覚です。「支えよう」という無意識の意図が動員できる範囲全てが“腰”の感覚になるのです。

腰はどんな風に「からだ」を支えているのか?

現在の私達でも、「からだ」に意識を向けて生活していると腰に色々な力が通り抜けて交差していくのを感じることが出来ます。そして、その力の交差点の真ん中にあるのが“重さ”という感覚だと思います。どのように重さが全身へ影響をあたえているのかが感じられれば、日々の生活全体を縁の下の力持ちとして支えているのを感じることが出来ます。

重さ

当然のことですが腰は上半身の重さを支えています。
この重さが「からだ」を貫いて落ちていく流れと地面からそれを押しかえそうとする反発力がぶつかりあう場所が腰だと言えます。
つまり、地面からもらう力と上半身の崩れ落ちる力がクロスする交差点なのです。

先取りしていってしまうと、この混じりあう交差点をどう誘導しているのかによって「からだ」全体のモードが切り変わっていくのです。

支え方によって「からだ」の突き抜けていく力のラインが変わる

力の交差点を「からだ」は様々な仕方で支えます。前気味で操るか、後ろ寄りで操るか、少し上の方でさばくか、下の方まで後退してさばくのかなどなどです。
「からだ」は私達が考える前にこのさばき方をどんどんと自在に変えて周りの状態に対応しています。当然、支え方の変化によって上半身から下半身へと貫く重さの通り路(重心?)が変わります。
つまり、
「からだ」は要の腰を操ることによって上から下まで貫く力のラインを間接的に調整しているのです。

重さのラインが通ると…

この重さが通り抜けるラインが「からだ」の様々な場所を活性化したり抑制したりします。(と私は感じられます。) 胃の裏を丸くなるようなラインが走ると胃の動きが悪くなります。背を丸くするようなラインは息を浅くして心拍数を上げます。

「からだ」は腰で心身のモードを調整している

つまり、「からだ」は【要である腰】を状況に合わせて調整することによって、上下に貫くラインを動かし、体全体の生理に変化を起こさせているということです。
この体全体の生理の中に心の状態や集中力みたいなものも含まれるのは当然です。息が浅くなれば悲観的になりやすくなりますし、心拍数が上がれば緊張しやすくなります。
ラインが複数の「からだ」の場所に同時に作用していくことを考えるとラインの位置取りはある種の「からだ」のモードだと言えます。
ここまでくると
「あいつは逃げ腰だ」とか
「本腰を入れて取りかかろう」といった表現が単なる比喩でないことがわかってきます。

「からだ」は【要の腰】を誘導することによって心身のモードを切り替えて、この複雑な世界に絶えず対応しようとしているのです。

腰痛になるということは…

上記のように腰が心身のモードを調整しているという観点から、腰痛を見ると、単なる上半身の重さで押し潰されて痛くなっているという力学的な視点だけではもの足りないことになります。
付け加えるべきなのは、

様々な要因から、腰の心身モードの切り替えが柔軟に出来なくなり、負担が狭い範囲に集中してしまっている

ということです。
一つのモードに頼り過ぎて一ヶ所にだけ負担を強いているのかもしれません。単調な生活のため、他のモードへ切り換えられなくなっているのかもしれません。それこそ、単に運動不足のため腰が硬くなり別なモードへ移行出来ないのかもしれません。
もしかすると、食べすぎや精神的緊張がライン取りを一つの方向へ収斂させているのかも知れません。

腰は重さだけを支えているのではない

この腰が他のモードを切り換えれなくなってしまう理由を考えていくと
毎日の生活の積み重ねに行き当たるはずです。

同じモードに居ついてしまうのは
やたら過剰なデスクワークのせいかもしれません。
職場の過剰なプレッシャーが息を浅くしてその姿勢を取らせているのかもしれせん。
そう考えると腰は単に“重さ”だけに耐えているのではないことがわかると思います。
そういうモードを選ばざるえなくなってしまう環境に耐えているのです。

腰痛になるということは柔軟なラインの選択が出来ないくらいに
「からだ」が環境から追い込まれているということなのです。

つまり、

【腰は“重さ”+様々な重荷に耐えている】

のです。
そうすると腰痛の治療は、
生活を見直していくということこそが本当の根本治療になっていくはずなのです。